女が意味深な気だるいため息を吐き、その長い呼吸に合わせて白い肩を大きく上下させた時、ジグモンドは女が既にその気になっていることを確信した。
自己主張の激しい小鳥が討論でもしあっているかのような喧噪のなかで、女がスツールに座り直した際には絹のブルーのナイトドレスの布摺れの音が聞こえるような気がするほど、過敏でセクシャルな空気が二人の間に出来上がっていた。

女は頬杖をついた手のひらを頬に押し当てている。細い小指の先、誘いかけるような目配せがジグモンドの首筋にしばしば投げられた。大きな黒眼にはバーの明かりがキラキラと映り込んでいる。
ブロンドのボブカットがよく似合う、20代前半と見られるこの女性は、ほんの三日ほど前に同じバーでたまたま隣に座った間柄で(ちょうど今座っているこの席だ)、今日が二回目の偶然というわけだ。とはいっても、お互いに個人的な予定として今夜このバーに来ると言うことは明言していたのだが、出会ったのはあくまで偶然ということにしている。その方がドラマチックだし、もしどちらかが身を引きたいと思った際に相手に当惑した眼差しで、もしくは話が違うじゃないかと攻め入るような眼差しで見られる心配もない。
だがそんな心配はいらなかったようだ。女はジグモンドを気に入っているようだし、ジグモンドにしても彼女に好感を持っていた。最初に会った時よりも大人びたロングドレスを選んできたところが一番ジグモンドの気に召した。黒い大きなカチューシャも現代風で素敵だった。


「今は、何か作っているのかしら」

「え?」

「発明、が趣味だって、言ってたでしょう」


女の声はコケティッシュな感じの見た目に反して、ハスキーであった。ああ、と答えて、グラスに残ったダイキリをぐいと喉に流し込んだ。


「モーターを使った移動手段を考えてるんだ」

「モーター?」

「ああ、自転車みたいに自分で足を動かす必要がない、自動車みたいに幅を取らない。電動で動く自転車みたいなものかな」

「電動自転車ね、素敵」


女が驚いた風な表情を挟む間もなく愛情あふれる表情に変わった。優しく見守っている、例え研究が失敗しても私はいつでも貴方の味方よ、そんな表情だった。


「いや、自転車というかね、今考えてるのはそれよりも小型のものなんだよ。もっとタイヤは小さく、体の両脇につく形。体の前にT字型のハンドルを取り付ける。もっともこれは方向を定めるためのハンドルではなくて、あくまで体のバランスを取るための手すりみたいなものだ」

「ふうん」

「肝心なのは足を乗せるプレートだ。行きたい方向に体の重心を傾ける。そうするとプレートが重心の移動を感知して、タイヤの向きを都度変えるんだ。つまりね、君は体を少し動かすだけでどこにだって行けるんだ」

「すごいわ。完成したら一番に乗らせてよ」

「もちろんだよ」


――もちろん、一番に乗せてあげるさ! 完成したらの話だが。


女は目の前のグラスに口をつける。ほとんど残っていない。少し話を突っ込みすぎた、と彼女の方でも思っているのだろう。ジグモンドとしても、口から出まかせの空想話をこれ以上続けるのは少々酔いのまわった頭では簡単なことではなかった。
二人の間に必要なのは気のきいた会話ではなく、刺激的で情緒的な、男女の夜だ。まして気のきかない会話など空になったグラスよりも使えない。


「そろそろ、行こうか。時間も遅いし」

「あ、ええ。そうね」


女に先に通りに止めてある車に乗っているよう言い、顔馴染みのマスターに勘定を払った。無表情だが支払いを受け取る手の動きは軽快である。一見無愛想だが、これでもなかなか面倒見のいい男なのだ。代金を心ばかりまけてもらい、そのお礼を言いがてら「そういえば」とジグモンドは切り出した。


「あの、最近、来てる? あいつら」

「シャンドール様ですか?」

「ああ、まあ、ラースロとかも」


マスターはレジの中を何やら整理しながら、「ええ」と言った。


「ちょうど昨晩、御二人でいらっしゃいましたよ。2杯ほど飲んですぐに帰って行かれましたが」


他の客にちょうど呼ばれてしまい、マスターは足早にそちらに向かったので、ジグモンドの愕然とした顔は見られることはなかった。






車の一番にぎわう時間帯は過ぎて、大通りにはよろめきながら歩いている団体がいくつか。12月も半ばとあって肌寒い空気が街を包んでいた。今年は比較的暖冬ともいえる温暖な気候だったが、それでも冬は寒いものだ。
夜の闇の中でくすんだグリーンのフォードが息をひそめるようにして佇んでいる。夏の間中アメリカの西部海岸沿いの砂漠地帯にでも放置されていたかのようなくたびれた風情だが、それはそれで悪くない味が出ている。
ジグモンドはサイドから車に滑り込んだ。


「おまたせ。寒くなかった?」

「うん、平気よ」


女は健気にそう言いながらも、ショールを肩にしっかり巻きつけていて、いかにも寒そうな素振りだったので、ジグモンドは自分の首に巻いていたマフラーを外し、女の肩にショールの上からかけてやった。


「あ、ありがとう」


ぎこちなく強張る女の肩を、そのままの流れで抱いた。女は緊張しているらしい。さっきまでの誘いかけるような視線は緊張を隠すための演技だったのだろうか。どちらにしても女が自分に好意を抱いているのは間違いないのだから、とさして問題にも思わず、ジグモンドは女との距離を詰めた。首元から漂う甘い香りに誘われるように、顔を近づけた。


「なあに、ちょっと、ジグモンド」

「ん?」

「ねえ……だめよ」


女の言葉を無視し、半ば強引に女の唇をふさいだ。薄くて柔らかい唇だった。ほんのりカクテルの味が残っている。上半身を女の前に乗り出して更に深い口づけを求めた。女の手のひらが胸に押しつけられていることに気がついたが、構わなかった。


「ジグモンド! やめてってば」

「なんで?」

「そんなの……だって、会ったばかりだし」


女は目を合わせずに小さな声で呟く。


「それに、そういうのは、恋人とすればいいじゃない」


女の言葉に一瞬当惑したジグモンドであったが、何か期待と不安の入り混じった女の瞳を見て、なるほど、と合点がいった。女はジグモンドに他に恋人がいると思っているのだ。そんな素振りを見せたつもりはかけらもないし、むしろ実際のところ恋人なんていないのだが、恐らく自分に対する軽薄さでジグモンドの人間性を判断し、そういった予測を立てたのだろう。だが彼女が誘いかけていたのは嘘ではない。刺激的な夜を求めていたのはお互い同じだが、彼女の方では刺激的で、なおかつ誠実な夜を求めていたらしかった。要は、まずは恋人同士になりたいと。話はそれからだ、と言っているのだ。
ジグモンドは女の耳元に顔を近づけた。


「……だめ?」

「私、恋人以外とそういうことをする気はないわ」

「真面目だねぇ」

「真面目だわよ」


急に教師のように偉そうな物言いになった女に興醒めした。ジグモンドは女から離れ、運転席に背を預けた。何かもの言いたげな瞳がジグモンドをじっと見つめていたが、やがて「帰る」と女が言い、数秒間彼の反応を待った後、引き留める様子もないのを悟って車を降りていった。


「なぁんで、こうなっちまうのかねぇ……」


車の背を倒して横になりながら、深いため息をついた。

恋人だって? 無理に決まっている。あの期待に満ちた無垢な瞳を前にして、大学教授の助手をやっているなんて嘘を今後もつきとおすなんて心苦しすぎる。それに、昨年買ったと宣言したこの車も、本当はレンタカーなのだ。


「ついてない……くそっ」


腕時計を見ればレンタカーの返却時間を数分過ぎている。延長料金を取られることは免れない。結局女には逃げられるし、だったらバーでも奢るんじゃなかった。もともとシャンドールの家に住み着いて生活をしていた身としては、贅沢のできる金などあるはずがないのだ。
まして、今の彼はその日の寝床にも窮している始末であった。というのもちょうど一週間前ほど、シャンドールからヴェロニカとともにウェールズに行くと告げられたあの日から、彼は一人で生きて行く決心を固め、誰にも告げずに一人家を出たのだった。



車を走らせ、レンタカーショップに渋々車を返却し、一時間分の延滞料金を支払い、その足で今夜の宿探しに取り掛かる。ここ数日はビジネスホテルに泊まっていたが、いよいよ金がなくなってきた。あと二日間、まともな人間の生活をしたらすっかりなくなる額だ。

安宿の集まる通りには、怪しい店も多い。生娘のようにうらぶれた通りの危険を恐れるわけではないが、多少の警戒は必要だ。客引きの女が三人、こそこそ話しながらジグモンドの方を見ている。ジグモンドは早足で通り過ぎた。あれはぼったくられる類の店だ。誰か寂しがり屋の金持ち女でもいれば、と都合のいい事を願いながら歩いていたが、いるのは豹のような野性的な目つきをしたブロンド、もしくは赤毛の女、同じような目つきでひたすらに笑っている男の団体ばかりであった。

どの宿もいかがわしい雰囲気を醸している所ばかりで、ジグモンドの脳裏にいよいよ公園のベンチが浮かんだ時だった。急に肩を引かれて立ち止った。がたいのいい男が、人のいい笑みを浮かべてそこにたっていた。


「何してるの? コートもなしで、寒くない?」

「寒いさ。凍えそうなくらい」


ジグモンドはそのまま歩き続けたが、男はジグモンドの返答に気を良くしたのか肩に置いた手をそのまま反対の肩にまで回した。


「どっか入ろうよ。奢るからさ」


奢るから、という言葉に一瞬心が揺れる。
そうだ、このまま彼について行けば、温かい飲み物でも一杯おごってもらって、きっとその後はホテルに行く羽目になるだろうけど、そこは覚悟を決めて一発やってやれば朝までぬくぬくと布団にくるまっていられる。まあそれも、ありっちゃありか。
……いや、ありなのか?


「うーん」

「寒いだろ、早く入ろうよ。どこでもいいよ、俺この辺詳しいし」

「……でも、いいでーす。遠慮しときまーす」

「え、何で? 大体、こんな通り歩いてたら危ないぜ」

「いいんです」

「朝方はもっと冷えるし」

「いいんです」


いきなりジグモンドの目の前に男が立ちはだかった。


「いくら?」

「は?」

「いくらならヤらせてくれる?」


男の目に焦りと真剣さが見えた。その変貌ぶりは滑稽ではあったが、当事者のジグモンドは本能的に恐怖を感じた。本気で逃げなければ、ヤられる。


「いくらでも! やんねーよ!」


そう吐き捨てて、男の横を早足で通り過ぎた。心臓がバクバクと激しく鼓動を刻む。追いかけてくるかもしれない。喧嘩になったら勝てるような相手じゃない。
そのまま半ば走るような速さで通りを抜けて、川に面した大通りに出た時に、ようやく後ろを振り向いた。誰も追いかけてきていなかった。


「はあ、はあ……」


馬鹿な考えだった。いくら金を積まれたって、見知らぬ男とできるほど落ちぶれちゃいない。
……というより、そんな勇気はない。


ひとまず難を逃れ、救われた気持ちで胸をなでおろしたが、また先の見えない宿探しを再開しなければいけないという事実に絶望に似た気持ちが胸を重く満たした。ゆくあてもないジグモンドはさっきの通りから少しでも離れたい一心で真っ黒い川にかかる大きな橋に向かった。
昼間には車が多く行き交う二車線の橋で、この川に架かる橋の中では二番目に大きい。もちろん今は人通りは全くないが。
橋を渡れば大きなデパートが立ち並ぶショッピング街だ。そこは裕福な連中が縄張りとしている地域で、宿代もばかにならない。


「プラザホテルにでも泊まってやろうか……クソッ」


橋の真ん中で立ち止り、ジグモンドは誰にともなく悪態をついた。
寒空の下、空気はますます冷え込んできている。マフラー、マフラー……。首元に手をやって、マフラーをしていないことに気がついた。どうしたんだっけ、と記憶をたどり、あの女が肩にかけたまま持って行ってしまったのだと気がついた。なんてことだ! あんまりの事実にジグモンドは打ちひしがれ、橋の手すりに片手をかけたままその場に座り込んでしまった。
悪いことは重なるものだ。金もない、宿もない、衣服は薄手のスーツ一着だけ。手持ちのバッグには暇つぶし用の役立たないペーパーバックと薄手のシャツが二枚あるぐらい。


(俺……なんでこんな思いしなきゃいけないんだろう……)


暗がりの中、滲む視界の端に人影が映った。橋の反対側で、新聞紙を布団代わりにして眠っている人がいる。周りには段ボールが風避けとばかりに建てられている。ホームレスだ。何処ぞに泊まる当てもない男のなれの果てだ。


(あんなになってでも、生きたいか? 俺)


ジグモンドはゆっくりと立ち上がった。今や彼の中には深い無力感があるだけだった。手すりから身を乗り出して、唸る音だけは重々しく立派な黒い川をじっと見つめる。何も見えない。水がどっちの方向に流れているのかすらわからない。


(誰にも必要とされてないしな……俺なんか)


シャンドールとラースロは昨晩あのバーに来ていたという。
俺がいなくなったって言うのに、捜索活動もしないで楽しく飲んでたってわけだ!

裏切られたような気持ちでいっぱいになった。冷たい手摺に置いた手に力が入る。乾いた指先はもはや寒さで感覚がない。
俺がいないって言うのに、あいつらがいつも通り笑っているなんてひどすぎる。あいつらが普通に笑っているなんて……。
途端、ふっと肩の力が抜けた。暗く、深い井戸の中に誰かが小石を投げ込んだみたいに、ジグモンドの悶々とした頭が冷え冷えと冴えた。


(考えてみりゃ、あいつらが俺を探さなくたって当然だよな……。ただの居候で、まともな仕事もしないで、シャンドールの脛かじってるようなもんなんだから。シャンドールはウェールズに行くし、寧ろタイミング良く俺がいなくなって良かったんじゃないか)

(きっと俺の扱いに困っただろうなあ)


知らず、手摺に雫がぽたりと落ちて、立て続けにぽたぽたと涙が垂れた。手の甲で思い切り目元を擦った。涙は温かく、だが空気に触れてすぐに冷たくなった。

シャンドールの笑顔が浮かんだ。神経質なシャンドールは、誰に対してもいつも予め用意しておいたような笑顔しか見せないくせに、ジグモンドと二人の時には本当に楽しそうに笑っていたのだ。ジグモンドの猫っ毛を弄っては、黒い瞳を子供のように細めて笑っていた。自分にだけ向けられるその笑顔が、本当に好きだった。
もう、見られない。その笑顔はヴェロニカのものになるのだ。


「ちゃんと、仕事もしてれば、な……。俺、悪かったなあ……ほんと」


風が吹いた。冷たい空気が首筋を凍らせる。夜空には星一つない。月も雲に隠れているようだ。誰も、何もジグモンドを気にかけてはいなかった。
しばらくして涙は止まった。鼻を啜る音は川音にかき消された。ジグモンドは腕に力を込めて、細い手摺の上に飛び乗り、そのままの勢いで暗い水面に身を投げた――。